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第4話

 ***     都内に2DKを借りて、ふたりで暮らし始めた。  住所変更など気がかりもあったが、新しいマンションの名義は全てさくらにしておいた。  式を挙げればバレてしまうかもしれないと、式も挙げずにふたりだけでパーティーをして終わりにした。  結婚指輪は互いに選んだが、それを正義が付けることはない。  寂しいと思えば寂しい結婚だが、さくらは満ち足りた思いで新しい生活を始めていた。  そして、正義と同じ時間に通勤し、通勤前にテレビの向こうの正義を見るのも日課だ。 『おはよう! 今日も元気?』  笑顔満点の正義がいて、隣のお姉さんも同じような事を言う。 『僕の好きな食べ物はバナナ。皆は何かな?』  ぼく、という言い方は、どうやらテレビ向けらしい。  音大時代は言っていたが、今はもう言っていない。 「正義、どうして『俺』って言い方にしたの?」 「さくらの前だけだよ」  優しい笑みを見せる正義に、さくらは首を傾げた。 「ふたりきりの時、ぼくって言うと子供みたいだろ」 「そうかもしれないけれど。私は気にしないよ?」 「俺には重要なの。さあ、今日も仕事に行こうか。さくらの目玉焼きが半熟だと良かったなあ」  正義の愚痴を聞きつつ、ふたりで部屋を出るとすぐに別の駅へ向かう。  同じ駅を使っていてはバレるかもしれないと、正義が提案したのだ。  とはいえ、毎日正義は一駅余計に歩いてくれている。 (やっぱり普通の生活じゃないな)  さくらはため息を吐くと電車に乗り、駅で二駅のピアノ教室へ向かった。  さくらが通う教室には、将来を見据えた子もいれば、習い事として来る子もいたり、様々だ。  午前中は事務処理を終えた後に小さな子のリトミック教室があり、それを手伝う。  教室に着くと、同期の愛華(あいか)が顔を出す。  小さい子を主に担当していて、リトミックは彼女が中心だ。 「愛華。おはよう」 「おはよう、さくら」 「ん? さくら、なんか変わった?」 「ううん、何も」  努めて平静を装うが、昨夜は正義から散々求められて寝不足だった。  昨日だけじゃない、一緒に住むようになり、今までの時間を取り戻すかのようにさくらのことを求めてくるのだ。  昨夜のキスマークが体中にあると思うとさくらは愛華と目を合わせていられない。 「今日のリトミックは、何歳の子が来るの?」 「えーと。一歳から三歳。幼稚園に入る前の子が中心かな」 「そうなんだ。私はどうしたらいい?」 「そうだなあ。子供に人気の歌をやるから、それをピアノで弾いてくれればいいかな」  そうして渡された譜面を見せられてドキリとする。  題名は知っている。  正義がテレビで歌ったことのある歌で、子供がにこにこ歌うのが印象的なのだ。 「愛華、さすが。この歌人気だよ。特に、お姉さんの歌声が綺麗なんだよね」 「え……、さくら、知ってるの?」  愛華から咄嗟に言われて苦笑いを浮かべてしまう。  普通のOLが、たとえピアノ教室の先生だとしても、歌のお兄さんやお姉さんの存在を知る筈がないし、ましてや歌に詳しいわけもない。 「あ、はは。姪っ子がいるから。DVD見て」  苦し紛れの嘘を付くが愛華は頷いて信じてしまった。  一方のさくら自分の付いた嘘が嫌で落ち込んでしまう。  嘘に嘘を重ねてしまうのも嫌だし、素直に知っていると言えないのも悲しいことだ。 (歌のお兄さんが私の結婚相手だなんてバレたら、この教室にもいられないわね)  母親が送り迎えする中、時折正義の名前を聞くことがある。  人気が出る前からだったし、人気が出てからは母親の楽しみかのように子供よりも賑わう日すらある。  こっそり結婚していますとは、夢を壊しそうで到底言えそうにない。  譜面を渡されて、さくら一回ピアノでさらってみると、とても軽快な音楽で楽しくなる。 「きっと楽しくなるね」 「人気なんだって~。まさよしお兄さんが。この歌を歌う時、凄い楽しそうに歌うらしいの。あ、まさよしお兄さんなんて知らないよね。それとも、姪っ子ちゃんから聞いてる?」 「う、うん。なんとなく」  さくらは顔を引きつらせながら、愛華を見つめた。  正義が楽しそうに歌う姿は、確かにテレビ越しに見ていたが、どれもこれも楽しそうに思えていた。  確かに、この曲も特別楽しそうに聞こえてくるけれど、一体何が? とさくらは首をひねった。 「お母さんに人気なの。今日の曲はリクエストなの。ソロパートが素敵なんだって。私には分からないし、リトミックには関係ないんだけどね」 「そう、だよね」  さくらは尚顔を引きつらせる。  お母さんの間で人気だとは知っていたし、教室でも話は聞いていたが、思った以上の人気ぶり怖くなりそうだ。  なんとしても、正義との関係は伏せねばとぎゅっと拳を握り締めてしまう。 「まさよしお兄さんが結婚を意識して引退するんじゃないかって、お母さんは心配らしいよ? 子供より親が楽しみなんだね」 「そ、そうなんだ」 「まあ、とにかく頑張ろう。私も歌のパート頑張らないと指摘されちゃう」  そう言って愛華は苦笑するとさくらの肩をぽんと叩いた。  そして使っていた椅子などを片付け始めると、さくらもそれにつづいて綺麗にし始めた。  教室が始まると、お母さんと子供が顔を出した。 愛華の予言通り、その曲を弾き始めると子供と親が両方喜び、教室は活気付いた。  なにより、お母さんが嬉しそうに『コンサートのチケット取って、まさよしお兄さんに会いたいわ』と呟いていたのが印象的で、さくらは愛華の隅に隠れてピアノにへばりついていた。
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