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第1話
会社に行くほんの僅かな時間。
トーストが焼けてほんのりと部屋には優しく香ばしい香りが漂っていた。
朝は紅茶とトースト、目玉焼きと決めてあり、谷崎さくら(たにさきさくら)はキッチンでせっせと目玉焼きを焼いて、皿に盛り、慌ただしく小さなダイニングテーブルに向かった。
「始まっちゃう、始まっちゃう」
テレビを付けると、丁度オープニングの場面が始まり、そして画面が切り替わるとさくらの 彼、高木正義(たかぎまさよし)が笑顔満点で「おはよーう!」と手を振っている。
隣のお姉さんも、楽しそうに「おはよう! 今日も元気かな?」と明るい雰囲気だ。
(今日も元気みたい)
画面の向こうの彼、正義の顔を見てほっと笑み浮かべてしまう。
テレビを見ていると、急に膝に座ろうとする子供を抱き膝に座らせる姿が映る。
正義が歌のお兄さんではなく、さくらの夫なのではないかと思う程、それは自然だった。
歌も相変わらず上手く、伸びやか声がお姉さんと重なり子供達も一緒に歌っていた。
途中、シャボン玉が飛び始めると子供が飛びはねて喜び、正義の笑顔は一層明るいものになる。
(人気だよね)
テレビの向こうで笑顔を見せてくれる正義に、さくら一瞬嫉妬のようなものを感じた。
それと同時に安堵も感じている。
これは生放送でもなければ、顔色だって化粧で本当に元気かも分からない。
ただ、画面の向こうで笑顔を見せてくれているだけでも、さくらには安心出来ることの一つだ。
かれこれ、正義とは二週間近く会えていない。
更に言えば、そういう付き合いがもう六年程続いている。
結婚も考えてはいるものの、多忙ゆえに現実的な話は何ひとつ出ていない状態だ。
(歌のお兄さんが憧れだったから、仕方ないよね)
深いため息を吐いてしまうと、さくらは出会った頃の正義を思い出していた。
まだお互いに音大在学中だったが、互いに進路が決まっていなかったのだ。
正義はその頃から『歌のお兄さん』の一点張りで、進路担当を困らせていた。
一方のさくらは、一歩秀でた才能がなく、ピアノ教室の先生が無難なんだろうと思ってはいたが、個人で活動をしたいという夢を捨てきれずにいた為に、就職活動自体が遅れていた。
結果、ふたりは進路指導室で顔を突き合わせ、初めて会話をしたのだ。
◆
「俺は歌のお兄さん意外に考えていません。その為の努力ならなんだってします。本気です」
進路指導室に、熱っぽい言葉が響いた。
誰だろうと見てみれば、声楽家ではイケメンでちょっと有名な高木だ。
同時に、歌のお兄さんになりたいことでも知られていた。
(噂は本当だったんだ。私とは大違い)
さくらは個人で活動を夢みたものの、ことごとく当ては外れて、結果、ピアノ教師になろうと相談に来ていたのだ。
正直、そうなることはさくらにはどこかでは分かっていた。
周りがさっさと現実的に考え始める中、さくらだけは自分の力量以上の事を望んでいると分かって活動をしたせいで、結果このざまだ。
進路担当の先生に呼ばれると、さくらは素直に自分の気持ちを打ち明けた。
「それなら、私のツテがあるから。心配しないですぐに面接してもらいましょう」
「……はい」
さくらはすぐに決まったことに違和感を感じながらも、その後の将来が確保されたようで安堵した。
しかしその横では高木が熱っぽく進路担当を説き伏せている。
「子供を幸せにする歌が歌いたいんです。その為にはどうしたらいいですか?」
「オーディションを受けなさい。それよりも、君は華もあるし、成績も良い。別の道だってあるだろう?」
「駄目です。これだって想いがなきゃ、歌えません」
「そうか……。また来なさい。少し頭を冷やすように」
「俺はふざけてるつもりは……。失礼します」
さくらは聞き入ってしまうと、高木と目が合った。
その熱意に感動すら覚えるが、自分にはもうない事だと思うと恥ずかしさで目を逸らす。
「ごめん、聞こえてた?」
「はい。凄い素敵な夢ですね」
ふたりで進路指導室を出ながら話し始めると、さくらの鼓動は自然と鳴り始める。
自分には無いものを、高木は持っているのだから。
「皆からは、馬鹿だって言われるよ。オーディションもいつか分からないし、何をすれば受かるかも分からないしさ」
「そうかもしれないけれど、きっと、高木さんなら」
不意に高木の名前を出したことで、目を丸くされた。
ハッとして謝ると、高木は頭を搔いて恥ずかしそうにはにかみ笑いをする。
「俺って有名人?」
「まあ、色々と」
改めて高木を見直すと、その整っている顔立ちに見惚れそうになる。
丸みを帯びた目は黒目がちで、鼻筋はすっと通っている。
薄い唇は笑うときゅっと口角が上がり、綺麗な笑みを見せてくれるのだ。
髪の毛もいつも丁寧に整えられているが、今日はどこかぼさぼさだ。
なんでだろうとさくらは首を傾げると、高木が頭をかきむしる。
「あー! なんで上手くいかないんだろう!」
どうやらその癖のせいで頭がぼさぼさになったらしい。
「髪の毛、ぼさぼさですよ?」
「そうだった。あー。悔しいな。ねえ、君はなんで進路指導室に?」
「私は、出遅れて。でも、ピアノ教室を紹介されたから」
「ふーん。なんで出遅れたの?」
高木からの思わぬ質問に、さくらは口を噤んだ。
熱意の塊のような人から、たった今夢を諦めたことを告げるのは苦しかった。
かと言って、嘘も言えない。
「夢を諦めました。だから、ピアノの先生に」
情けないと思いながら高木を見つめると、ニコニコしながらさくらを見てくる。
「いいんじゃない。だってピアノを教えるのって子供の未来を支えることが出来るだろ?」
「う、うん」
(そんなこと、考えてなかった……)
「未来のピアニストを育てるかもしれないよ! 頑張ろう!」
「そうですね! うん。そうですね!」
妙な説得力のある言葉に圧され、さくらは自信を取り戻せそうな予感がし始めた。
笑みを見せると、高木も嬉しそうに微笑んでいる。
他人の幸せも一緒に微笑んでくれる姿に、さくらはまた胸を鳴らせてしまう。
「俺、高木正義。また会ったらよろしく」
「私は、谷崎さくらです。あ、あの……この後少しお話聞かせてください。その、高木さんの話」
「え。俺? なに?」
「歌のお兄さんになんでなりたいのか、知りたくて」
さくらは頬を染めながら自分から誘いを掛けた。
勿論、彼氏だっていないし、出来たこともない。
こんなことは始めてだし、もう二度とないかもしれない。
でも、このまま高木と別れたらあの熱意の源を知るチャンスも、そして高木自身を知ることも出来なくなりそうで、声を掛けずにはいられなかったのだ。
胸が鳴り止まず、頬は真っ赤で暑い程だ。
(何やってるんだろっ)
「いいよ。じゃあ、近くのカフェに行こう」
「……はい!」
高木は笑顔で受け入れてくれると、ふたりはそのままカフェでお互いのことを語り合った。
そしてそれから一か月後、ふたりは付き合い始めることになり、そして高木は大学卒業付近で歌のお兄さんのオーデションに受かり、歌のお兄さんになった。
高木は世間では『まさよしお兄さん』としてママには有名となり、そのルックスと歌の上手さで絶大な人気を誇るまでに昇り詰めた。
が、その反面、さくらとの時間は少なかった。
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