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すれ違う二人-8

「イリス様……?」 「だ、大丈夫よ。ちょっと考え事をしていただけだから」  食堂の扉の前でベルが心配そうに顔を覗きこんできたが、イリスは深く息を吐いて一つ頷いた。その合図で扉が開かれると、そこにはもうエルキュールが席について待っていた。 「エルキュール様……! お待たせしてしまってごめんなさい、その」 「いや、たまたま仕事が早く片付いただけだ。カルドン、飲み物をイリスに――どうした、顔色が悪いぞ」  ふと、彼の鋭い瞳がイリスを見据える。  深い森の中のような、落ち着いたビリジアンの瞳。意志の強さが垣間見えるその眼が、どこか心配そうな光を浮かべている。 「やっぱり、さっきのドレスが苦しかったんじゃないか?」 「そんなことはありません! その、とっても素敵なドレスでしたし……」 「そうか、ならばいいが――なにかあるならすぐにカルドンに言うといい。王都の中央からここまでは、医者を呼ぶにしろ時間がかかる」  そう言って、エルキュールはワインの入ったゴブレットを傾けた。イリスから視線を逸らした彼は、やや眉根を寄せてなにかを考えるそぶりを見せる。  テーブルの対面についたイリスは、カルドンからスパークリングウォーターを受け取って、そっと口をつけた。小気味よく弾ける炭酸が、胸のつっかえを少しずつ剥がしていってくれるようだ。 「その、エルキュール様」  肉料理が運ばれてくると、いい香りが食堂の中に広がっていく。鹿肉のソテーをゆっくり咀嚼したイリスは、もくもくと食事を進めるエルキュールに声を掛けた。  するとエルキュールは食事の手を止め、またまっすぐイリスを見つめてくる。 「どうした?」 「えぇと……さっきのこと、謝りたくって。せっかくエルキュール様が心配して下さったのに、私……」  口ごもると、エルキュールはさして気にした様子もなく首を横に振った。謝罪は必要ないと低く呟いたのを、イリスは聞き逃さなかった。だが、普段はきはきと喋る彼にしては、随分煮え切らないような喋り方だ。 「別に、君が謝ることはなにもない」 「でも……」 「俺が目測を誤っただけだ。君が謝るようなことではないし、謝られても困る」  はっきりとした口調でそう言い放ったエルキュールは、そのまま食事を進めはじめた。語気を荒げるわけでも、あからさまに不機嫌なわけでもない。だがその言葉は、エルキュールとの会話を望んでいたイリスが思っているよりずっと簡素で、ずっと冷たいものだった。 「……旦那様、ワインのおかわりを」 「いらない。この後もまだやることが残っているんだ。あまり飲み過ぎて、あとに響いても困る」  カルドンから勧められた酒も断り、エルキュールはまるで単純の作業を進めるように食事をとる。肉を切り、口に運び、咀嚼して飲み込む――そうした仕組みのからくり仕掛けでも見ているような気分になって、イリスはそっと彼から目を逸らした。 (どうしたのかしら、エルキュール様……執務がお忙しいようだし、疲れているの?)  昼間も、彼はどこか焦ったように自分の仕事を進めていた。王都に帰ってきたばかりでやることが山積みなのはわかるが、もしかして少しやり過ぎているのではないだろうか。 「エルキュール様。このお屋敷には素敵な中庭があると、先ほどアナスターシャに聞きました」 「中庭? あぁ、そうだな。屋敷があまりに殺風景だったから、中庭だけ花を植え直した。気に入ったものがあれば、庭師に言えば活けてくれるだろう」  エルキュールはイリスと会話する時だけは手を止め、片眉を上げて視線を向けてくれる。だが、それが終わるとまた作業のような食事に戻ってしまった。  これはいけないと、イリスはややテーブルに身を乗り出す形で彼に提案した。 「もしよかったら、明日のお昼にでも一緒に中庭を見て回りませんか? お忙しいのは十分承知していますが、時々お休みにならないといくらエルキュール様でも疲れてしまいます」  アナスターシャが言う通りなら、珍しい花々を見て少しはエルキュールの心を癒すことができるかもしれない。多忙な彼が、少しだけでも心のゆとり持つことができたら――イリスはそう思いながらちらりとエルキュールの表情を覗いたが、彼は難しそうな顔で顎に手を当てていた。 「残念だが、しばらくは無理そうだ。花が好きなら、君が一人で見てくるといい」 「でも……!」 「それに、この屋敷から自由に出ることができないのは、俺だけじゃないんだ。俺と婚姻を結んだ以上は君も公爵家の人間ということになり、王命の対象になる」  なんの感慨もないように肉を酒で流し込んで、エルキュールは秀美なその表情をゆがめた。まるで食事そのものが煩わしいという仕種に、思わずイリスの体も冷たくこわばる。 「その身の不自由は、すべて君自身が決めたことだ。嫌だというのならば、今すぐ伯爵家に戻ることだ。……俺は止めはしない」 「旦那様!」  冷水のような言葉を浴びせられて、イリスは自分の爪先から血液が流れていくような感覚を覚えた。すかさずカルドンが主を諫めるが、エルキュールは眉ひとつ動かさずに食事を続けている。  イリスは小さく体を震わせたまま、すとんと自分の席に着いた。背後でカルドンやベルたちがなにか言っているが、キンとした耳鳴りにふさがれてよく聞こえない。 (今のエルキュール様の声は、本気だったわ)  冷たく突き放すようなその声音は、決して冗談や嘘の類いではない。きわめて真剣で、どうしようもないほどに本気の言葉だ。
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