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すれ違う二人-7

 その他にも、元々習い事として教師がつけられていた声楽や礼儀作法にも、より精を出して彼の帰りを待っていたのだ。 「お嬢様は、エルキュール様とお会いになってからどこか元気がないように見えますわ。……なにかあったのなら、是非私にお話ししてください」 「アナスターシャ……」  穏やかな瞳でまっすぐイリスを見つめるアナスターシャの表情は、妹を心配する姉のようだった。天真爛漫で可愛らしく、あちこちを飛び回るベルとは正反対の、大人びた魅力を彼女は持っている。 「ありがとう、アナスターシャ。本当はね、ちょっとだけ不安だったの。お屋敷のことはなにも知らないし、エルキュール様になにがあったのかも知らない……あの方はなにも変わらないように見えて、どこか大きなところが変わってしまったような気がして、どうしていいのかわからないの」 「イリス様、それは――」  漠然とした結婚生活への不安ではなく、エルキュール個人に対しての不安。  先んじて公爵家に訪れた際、彼からの狂おしいまでの行為を差し引いたとしても、二年の歳月は十八歳のイリスにとってとても大きなものだった。 「それは、仕方のないことです。いくら幼い時から知り合っているとはいえ、イリス様とエルキュール様は赤の他人なのですから。ですから、これからお互いを知っていくのですよ」  姉のような優しさで、アナスターシャはそっとイリスの背を撫でてくれた。  彼女の努力を間近に見ていた彼女やベルだからこそ、イリス自身も弱音を吐くことができる。  胸の辺りをきゅっと押さえて、イリスはアナスターシャに笑顔を向けた。 「そうね、少しずつ……少しずつでも、ちゃんとエルキュール様のお心に寄り添えるようになりたいわ」  もう、エルキュールとイリスは他人ではない。今日一日でイリスの立場も家族も、なにもかもが変わってしまったのだ。  エルキュールとの結婚はそれを覚悟の上で、彼女が望んだことだ。 「イリス様! 香料のご用意ができるそうですよ。一週間後には必要なものが……あら? アナ、どうしたの?」  無邪気な笑顔で部屋の中にやってきたベルが、アナスターシャとイリスを交互に見て首を傾げた。  無垢なベルはまるでイリスの妹のようなものだ。幼い頃から伯爵家に仕えてきたこともあって、彼女は彼女なりにイリスの胸の内をわかってくれる。 「なんでもないわ、ベル」 「今イリス様とアナで秘密のお話をなさっていたでしょう! ベルにはわかりますからね。えーと……そう、香料! イリス様のご所望のものは、あの執事様が用意して下さるそうです」  公爵家を切り盛りする老執事は、イリスの趣味に驚きながらも快く香料や他の材料を用意してくれると約束したという。  嬉しそうに笑うベルに、アナスターシャとイリスもそれぞれ顔を合わせて笑いをこぼした。カルドンの様子を見る限り、エルキュールもイリスには好きにさせてくれるようだ。 「でもイリス様、そろそろお夕飯の時間だって執事様がおっしゃってましたよ。ドレスを着替えて、準備ができあがったら旦那様とお食事だって」 「もうそんな時間? 早いわね……それじゃあベル、アナスターシャ、着替えを手伝ってもらってもいいかしら? 屋敷に着いてからずっと働きづめだけれど……」 「そんなこと心配なさらないでくださいな。私やベルはこれが仕事ですわ」  さすがに贈られたドレスで食事を取るわけにもいかない。  ゆったりとしたワンピースに着替えるのを手伝ってもらいながら、イリスはエルキュールのことを考えていた。  よく考えてみれば、動揺していたとはいえ彼にはあんまりな態度を取ってしまった。夕食の席では、まずそれを謝罪しなければならないだろう。 「……私、エルキュール様に酷いことを言ってしまったわ。せっかく贈っていただいたドレスなのに……」  普段あまり口うるさくはないエルキュールだが、彼は彼なりにイリスの体を心配してくれていたのかもしれない。胸元や腰が締めつけられる独特の感覚は男性には覚えがないものだろうし、それを苦痛と受け取って心配してくれたのなら、イリスは彼にあまりにも不躾な物言いをしてしまった。 「エルキュール様、許してくれるかしら……」 「ヴィテンブリト王国の公爵ともあろうお方が、そのような些細なことで奥様を叱責するとは思えませんわ」  アナスターシャはきっぱりとそう断言したが、やはりイリスとしても一度エルキュール本人に謝罪しなければ気が済まない。  濃紺のワンピースに着替えたイリスは食堂へ向かう道すがら、心の中で何度も彼への謝罪を繰り返した。 (ごめんなさい、だけじゃなにに謝っているかわからないわ……せっかく心配してもらったのに、ごめんなさい、とかかしら)  昔はよくその辺を走り回って母に叱られることもあったが、ある程度年齢を経てからは誰かに謝るという経験はあまりなかった。あって、家庭教師から出された課題を忘れてしまった時くらいだ。  長い廊下を歩きながらそんなことを考えていると、胸の辺りが針で刺されたように苦しい。
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