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すれ違う二人-6

 慣れない生活で不安があるのは仕方がないことだ。自分にそう言い聞かせて、イリスは公爵家での生活を始めることになった。 「そうだ、奥様、このお屋敷の中庭は立派なものでしたわ。前庭があまり手入れをされていない様子だったので、期待はしていなかったのですが……あとで旦那様をお誘いになってみては?」 「中庭? ちゃんと見ていなかったわ」 「たくさんの種類の花が植えられていました。外国から輸入されたものもありましたし、そうやって少しずつ旦那様とお話をしていけばよろしいのではないでしょうか」  穏やかに笑うアナスターシャは、中庭に植わっていた花の名前をいくつか教えてくれた。聞き覚えのない東洋の花や、王都の貴族たちの中で最近流行している薔薇の名前などを教えてもらい、イリスは目を輝かせる。 「すごいわ……! アナスターシャは美術品だけじゃなくて、お花にも詳しいのね」 「教養の一環ですわ。ベルがおっちょこちょいな分、私が奥様をしっかりお支えしないと」 「アナ!? それってどういう意味よ!」  失礼だと声を張り上げるベルと、それを軽くあしらうアナスターシャの様子を見ていると、どこか安心する。彼女たちのやりとりは毎日のように伯爵邸で繰り返されていたものだ。 「ふふ、ありがとう二人とも。そうね、あんまり考えすぎていても進まないし……明日はエルキュール様をお庭に誘ってみようかしら」  忙しそうな様子ではあったが、だからこそ彼には休息も必要だろう。  いつか手が空いた時にでも、二人で中庭を散策して、また今日のようにお茶を飲むのもいいかもしれない。  この屋敷は広く、王都の外れということもあって喧噪からも遠ざかっている。静かな屋敷で二人暮らしていくというのも、そう思えば案外悪いものではない。 「そうだ、ベル……いつもみたいに、香料を用意してもらうことはできるかしら? エルキュール様はとてもお忙しいみたいだったし、なにか気分が落ち着くお香でも用意できたらと思うのだけれど」 「香料でございますね? 執事様に言ってすぐにご用意します!」  イリスがベルに頼むと、彼女は勢いよく部屋を出ていった。  実はイリスの趣味の一つとして、香りを合わせる調香というものがある。王宮に仕えたり、商会に出入りしている専門の調香師とまでは行かないが、香料をいくつか掛け合わせたり、気分を落ち着かせたりする香水を作るのは、実家でもよくやっていたことだ。  貴族の令嬢らしからぬ趣味だと両親からいい顔はされなかったが、もしかしたらこの趣味がエルキュールの助けになるかもしれない。 「奥様、あまりご無理をなさらず。調香は気を張る作業ですわ。お疲れではお鼻の感覚も鈍るというもの……それに、今から香料を集めるとなると少し時間がかかるはずです」  アナスターシャも、イリスの趣味にはあまりいい顔をしなかった。彼女はどちらかと言えば、主に対して刺繍や編み物などを勧めてくる。  けれどイリスも、これは純然な趣味だと諦めてもらうしかない。元々エルキュールが遠征に旅立ってしまってから、伯爵邸に出入りしていた承認や家庭教師に話を聞きかじってはじめたのが始まりだったのだ。 「香料を取り寄せるまでの時間は、別のことをして過ごすわ」 「……そう、ですか。申し訳ございません、出過ぎた真似をいたしました」 「いいえ、あなたの言いたいこともわかるもの」  すでに精製されている香料を調合するとはいえ、やはりこうした仕事は専門の仕事に就く人間がするものだ。まるで魔術のように薬品を調合する姿は貴族間であまりいいものとは思われないだろうし、今やイリスはエングランツ公爵夫人である。これ以上よからぬ噂を立てられてはたまらないという、アナスターシャの気持ちもよく理解できた。 「エルキュール様とはたくさんお話したいことがあったんだけど……たくさんありすぎて、なにを話していいかもわからなくなってしまう時があるわ。そういう時に、こうやって香りを嗅いで落ち着けたら、って思って」 「たくさん、ですか。――私はベルと違って、幼い時からずっとイリス様にお仕えしていたわけではございませんが……」  アナスターシャが父の友人の伝手で実家にやってきたのは、今から一年半ほど前のことだ。だから彼女は、遠征へ赴く前のエルキュールを知らない。 「ですが、イリス様がどんなお気持ちでエルキュール様をお待ちしていたかは、十分に知っているつもりですわ。あの方のために、あなた様がどれほど淑女として努力なさったかも」  二年前、もの知らぬ子供だったイリスは、エルキュールとの別離を酷く嘆いたものだった。生きて帰ってくるという保証がどこにもないと彼に告げられ、酷く傷ついた心を癒すためにはじめたのが調香だったのだ。
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