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すれ違う二人-2

「しかし……本当によろしいのですか? 結婚式が一年後だなんて」  ダムアル邸に向かう馬車の中、ベルが心配そうな声を上げる。それに追従して他の侍女たちも不安げな表情を見せたが、イリスの心の中はとても落ち着いていた。  結婚をするということよりも、今日からエルキュールと一緒に暮らすことの方が緊張するかもしれない。ドレスの胸の辺りを押さえたイリスは、首を傾げて微笑んだ。 「いいのよ。エルキュール様はお忙しいし、まだ王都にお戻りになったばかりだもの。身の回りが落ち着いて、少しゆっくりしたらってカルドンさんも言っていたわ」 「ですか、あの噂は……国王陛下に幽閉を命じられたというのが本当だったら、エングランツ公爵家はおしまいですわ。爵位や特権の剥奪も考えられます」 「ベルの言う通りです! いくら公爵閣下が国王陛下の従兄とはいえ、そんな家にお嬢様が嫁ぐだなんて……」  イリスはこの結婚に、年の近いメイドを伴ってきた。年長のアナスターシャや、妹のように人懐っこく、いつも仕えてくれるベル――誰もがイリスを心配して、この結婚は諦めろと何度も説得された。  だが、それでもイリスの想いは変わらない。 「アナスターシャ、それ以上はいけないわ。私はもうすぐ、その公爵家に嫁ぐのだから」  侍女たちの中でも一番しっかりしたアナスターシャは、イリスがそう微笑むとハッとして口をつぐんだ。これからイリスが嫁ぐ公爵家が、彼女たちの新しい職場であり言えとなるのだ。  ガロガロと車輪の音が聞こえて、馬車が止まる。  ややしばらく経つと、御者が扉を開けてくれた。 「お嬢様……いえ、奥様。お手を」  純朴な青年御者は、白手袋に包まれたイリスの手を取ると、彼女を馬車から降ろして恭しく頭を下げた。 「使用人一同、イリスお嬢様の幸せを心から祈っております」 「ありがとう、ジャック。お父様たちによろしくね」  ようやく御者を任されたばかりの彼は、イリスが礼を言うと顔を真っ赤にして更に深く頭を下げた。それを見たベルたちが彼をからかうが、その笑い声もやがてぴたりと止まった。 「……お嬢様? どうしました? お腹が痛いんですか?」  イリスはぼーっとしたように、馬車から降りたその場所に立ち尽くしたままだった。心配したベルが声を掛けるが、彼女はなんでもないと首を横に振る。 「大丈夫よ、ベル……その、とても大きなお屋敷だと思って。王都の外れって聞いていたから、もっと小さなお屋敷を想像していたのだけれど。……失礼よね」 「た、確かに大きなお屋敷ですね。でもとっても静か……」  見上げた新公爵邸は、伯爵家のそれよりも数段規模が大きいものだった。  庭や彫刻などはあまり手を加えられていないが、敷地や建物そのものが大きいのだ。華美さでいえば公爵家の本邸の方が豪華で美しいものの、笑い声すら聞こえてこない屋敷の静けさはどこか圧倒されるものがあった。 「それにしても、誰か迎えがあってもよさそうなのに。お嬢様が来ることは伝わってるんでしょう?」  アナスターシャが呆れたように息を吐く。  先に使いの者が公爵邸に向かっていたはずだし、今日この時刻にイリスがここへやってくることは事前の話し合いで決まっていたはずだ。  一抹の不安を覚えたイリスは、頼りなさげに周囲を見回した。  すると屋敷の扉が開いて、中からカルドンが慌ててやってくる。 「これは、イリス様――お待たせをしてしまったようで、申し訳ございません。急な来客があったものでして……」 「来客って――お嬢様が来ることは家々の話し合いで決まっていたじゃない!」  アナスターシャは噛みつくようにカルドンに食ってかかったが、相手は公爵家の老執事である。申し訳ないともう一度頭を下げた彼だったが、どうしても事情があったのだと詳しいことは教えてくれなかった。 「すでにイリス様の……いえ、奥様のお部屋は用意してございます。ご実家からのお荷物も届いておりますので、どうぞ中に」  カルドンが笑顔でイリスの側につき、彼女をエルキュールの待つ部屋へと案内してくれる。その間にベルたち侍女は彼女の部屋を整えるため、公爵家の長い廊下をあるくのは老執事と新しい女主人だけだった。 「すでにヴィテンブリト大司教には婚姻の誓約書を提出しております。後々エルキュール様から説明があるとは思いますが、すでにあなたはエングランツ公爵夫人なのですよ、イリス様」 「そう、なんですか。……てっきりなにか、もっと特別な手続きがあるのだと思っていました」 「国王陛下にはすでにお話が通っておりましたので、事務処理は我らで進めることが可能なのですよ。旦那様もお忙しい方でございますから」  花嫁がやってくるというのに、先ほどまで来客があったというほどだから、実質的な有名を命じられたとしても彼にはやることがたくさんあるのだろう。  まだ遠征の後処理や報告も残っているのだろうし、本来ならばイリスとの結婚ももっと先送りになるはずだったのだ。 「……私がわがままを言ってしまったから、ですよね。エルキュール様はもっとしっかりお休みにならないといけなかったのに」 「いいえ。あの方は止まっていれば死んでしまうようなお方なのです。あなた様との誤婚姻がなくとも、今ごとは諸侯と掛け合いご自分の仕事をなさっていたでしょう」  カルドンは人の良い笑顔を浮かべて、老眼鏡を押し上げた。イリスが幼い頃からずっとエルキュールに付き従っていたこの老執事は、誰よりも主のことをよく分かっているのだ。 「こちらが主の執務室になります。奥様と旦那様の私室は上の階になりますので、お話が終わったらご案内いたしましょう」 「ありがとうございます、カルドンさん」 「どうかカルドンと、呼び捨てになさってください。あなたは今日から、この家の女主人になられるのですから」  そう言って頭を下げるカルドンに見送られて、イリスはエルキュールの部屋の扉を開いた。やや古めかしい木製の扉から部屋の中に足を踏み入れると、それまで薄暗かった室内が途端に明るくなった。
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