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公爵の帰還-6

「忙しくてほとんどお会いできなくなってしまったけど、毎月手紙を下さったわ。季節のお花を添えて……ここ二年は、それもなくなってしまったけれど」  思い出すだに、イリスの半生はエルキュールのためにあったと言っても過言ではない。九歳年の離れた婚約者ができたのは、イリスがまだ九歳の時だった。  もし正式にエルキュールから婚約破棄を言い渡されて、はたしてこれから先の自分は彼を忘れられるのだろうか。  この国で生きていく以上、エングランツ公爵の名を聞かずに生きていくのは不可能だろう。そうなれば自分は、その名前を聞く度に彼への思いを突きつけられながら生きていくのか――そう思うだけで、胸の辺りがきつく締めつけられた。  コン、と部屋の扉が叩かれたのはその時のことだった。 「イリス――」  低く、耳に心地よい声が扉の向こうから聞こえてきた。  先ほど聞いた時よりも幾分落ち着いたエルキュールの声に、イリスは大きく目を見開く。 「……エルキュール、様?」  呼びかけると、ゆっくりとした動きで扉が開く。そうして扉の向こうから姿を現したエングランツ公エルキュールは、ビリジアンの瞳を細めてもう一度名前を呼んでくれた。  だが、その瞬間イリスの視界は大きく傾いた。  頭の中がずんと重くなり、どうしてだか瞼を開けていることすら億劫になる。 (なに……?)  少し頭を振るとその違和感は消え、イリスはようやく顔を上げることができた。 「イリス。随分と――長くお前のそばを空けた。健勝そうでなによりだ」  軍人らしい大股で歩み寄ってきたエルキュールは、唇に淡い笑みすら浮かべながら右手を差し出してくる。無骨なその手をイリスが両手で包むと、確かに彼の体温を感じた。 「本当に、本当にお元気そうで……! ユータハッドの地は大変な激戦と聞きました。それを無事鎮圧なさったと父から聞き……本当に、ご無事で……!」  せり上がってくる涙と言いようもないほどの安堵感に、イリスは言葉を詰まらせた。涙を落としてしまわないようにと必死で唇を噛むと、彼は慰めるように頭を撫でてくれる。  こんなところも変わらない。エルキュールはやはり、二年経ってもなにも変わらない彼のままだった。 「まず座りなさい。なにか飲み物でも?」 「いえ、……大丈夫です。その、昨日頂いたお手紙のことで、どうしてもお話を伺いたくて」  イリスを落ち着かせようと、何度か背を叩いてくれたエルキュールは、その話題になると深く息を吐き出した。  やはり、多忙な彼の時間を割いてまで会いに来たのは迷惑だったに違いない。  申し訳ない気持ちと切ない思いがないまぜになったまま、イリスは俯いて自分の意膝の辺りを眺めていた。 「君。……イリスと二人で話がしたい。少し外してくれないか?」 「え、わ、わたしですか?」  エルキュールはまず、ベルを部屋の外に出した。侍女に聞かせるような話ではないと思ったのだろう。大丈夫なのかとこちらを伺うベルに笑みを作って、イリスもゆっくりと頷く。 「大丈夫よ。ベルは少し下がっていて」 「わかり、ました……なにかあればすぐにお呼びください、お嬢様」  ぺこりと頭を下げたベルが部屋の外に出たのを確認して、エルキュールはじっとイリスの目を見つめてきた。  落ち着いたビリジアンの瞳は、当代国王と同じものだった。彼の父が先代国王の弟で、若く子供が国王に次いで彼の王位継承権はこの国で最も高い。  ダムアル邸とやらに幽閉されるというのも恐らくこれが原因ではないかと、昨日父は言っていた。 「率直に、簡潔に話をしよう。イリス、君は俺と契るべきではない」 「……どうして、ですか」 「俺自身の問題だ。君に欠点はなにもない――いつも手紙を書いてくれただろう。君が丹精込めて綴った文に返事もしない、そんな冷血漢を夫にするのはやめておけ」  自らを嘲笑うような口調で吐き捨てたエルキュールに、思わずイリスも食ってかかる。 「ご多忙だったのは十分承知していました! ……お返事をいただけなくても、あなたがご無事であればそれで……どうか、本当の理由をお聞かせください。心の準備なら、とっくにできています」  パードフォード伯爵家以外にも、公爵家と婚姻を結びたいと思っている家はいくらでもあるはずだ。或いはその中の誰かにエルキュールが心変わりしたといっても、仕方がないことだと引き下がる覚悟もできていた。  だが、今更取って付けたような言い訳は、いくらイリスでも彼の本心でないことくらいは理解できる。  エルキュールは柔らかい黒髪を掻くと、目を閉じてことさらに低い声を出した。 「二年だ。……二年離れていた。その間よく考えてみたんだが、どうにも俺は君にあまりふさわしくない人間らしくてな。あまり期待を持たせるよりかは、まだ若い君を自由にしてやった方がいいと思っただけだ」 「今更あなたが、それをおっしゃるんですか?」  イリスから見て、エルキュールは非の打ち所のない人間だった。  彫刻のような造形美はもとより、決断力に富んだ軍部の司令官で、彼は部下に対しても民に対しても誠実であった。王に対する忠義は誰よりも強く、二年前までは国王からの信頼がもっとも厚い臣下であったのだ。 「私が知っているエルキュール様は、お優しくて誠実で、おそばにいるだけで楽しくて――」 「今の俺が、君が知っている俺であるとは限らないだろう?」  イリスの言葉を遮るように、エルキュールは声を張った。  軍人である彼の声は、ともすればイリスを威圧するような響きを孕んでいる。  体を縮こまらせたイリスは、泣きそうになるのを必死で堪えて何度も頭を横に振った。 「やれやれ、しばらく見ない間にずいぶんわがままになったものだ」  わがままだというのは百も承知だった。自分が今なにを言っているのか、それが彼に対してとんだ不敬に当たってしまうこともよく分かっている。  それでも、イリスは退かなかった。しばらく黙り込んでいたエルキュールが呆れたような溜息を吐くまで、まんじりともせずに次の言葉を待っていた。
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