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公爵の帰還-5

 そして翌日、エングランツ公爵邸に向かった使いの者が帰ってきたのは太陽が中天を通り過ぎた頃だった。 「エングランツ公爵様に、お話を伺って参りました。……その、是非お嬢様と一度お話をしたいと――実は、公爵邸の馬車がすでに向かえに来ております。急ぎお支度を」 「エルキュール様が? わ、わかったわ。あなたはまず休んで……ベル、着替えをお願いできるかしら」  肩で息をしながら自室へ転がり込んできた使いの者を労いながら、イリスとベルは急いで着替えをおこなった。薄桃色のドレスに着替えたイリスは、ベルと一緒に屋敷の外で待っていた公爵家の馬車へと乗り込んだ。  正門から外に出ると、馬車の前にはしっかりとした身なりの老紳士が立っている。 「お久しぶりです、イリス様。覚えていらっしゃいますかな」 「カルドンさん、ですよね? エルキュール様の執事の……本当にお久しぶりです」 「ほっほ、いつものように『おじいさん執事のカルドン』と呼んでくださっても構いませんよ」 「ほ、本当に小さな頃の話じゃありませんか!」  イリスをエスコートしてくれたのは、公爵家の老執事であるカルドンだった。幼い頃にエルキュールと婚約を交わしてから、彼の家に遊びに行く時はいつもこのカルドンが彼女をエスコートしてくれたのだ。 「ご成人なさったと主からお聞きいたしました。本来はお祝いの品をお送りするべきだったのですが、主の帰還で当家も立て込んでおりまして……」 「気にしないでください。それよりも、エルキュール様が無事にお帰りになってなによりです」  ズキ……とわずかに胸が痛んだが、率直に彼の帰還を喜ぶ気持ちはある。静かな王都が嘘であるかのように、内乱の地は激戦を極めていたと父から聞いたことがある。 「それに、急なお話で本当にごめんなさい」 「いえ――主もイリス様に一度お会いしたいとこぼしておりました。昨日の件はお父上から聞き及んでおいででしょうが……」  語尾を濁らせたカルドンに、思わずイリスも眉を下げる。公爵家当主であるエルキュールに最も近い立場にいる彼は、恐らく本人から話を聞いているのだろう。  動き出した馬車の中、怯えたように体を小さくさせているベルに微笑んでから、イリスはゆっくりと首を振った。 「今日エルキュール様にお会いしたいと申し出たのも、私のわがままなんです。まずはお帰りになった事へのご挨拶と……これからのことを。もしエルキュール様が私との婚約破棄を本気で考えていらっしゃるのなら、仕方がないことです」 「イリス様……」  カルドンはなにも言わなかったが、それでも彼がどれだけ自分のことを考えてくれているかはイリスにもよく分かった。やがて馬車が公爵邸の正門へと着けられた時、彼はまるで自分の孫娘でも見るようなまなざしでイリスを主の元へと連れて行ってくれたのだ。 「エルキュール様。イリス様が到着なさいましたが、お会いになられないのですか」  公爵は、はたして自分の執務室に閉じこもっていた。  昨日王都に帰参したばかりだというのに、ダムアル邸に越す準備やら国王への報告書やらで、ほとんど休みも取っていないらしい。 「中に入りますよ、旦那様」  部屋の中から返答がないまま、カルドンはひとりエルキュールの執務室へと足を踏み入れた。執事は主の部屋に立ち入る際ノックを必要としないので、耳を澄ませば室内から驚くような声が聞こえてくる。 「――申し訳ありません、イリス様。少々主の様子が……いえ、すぐに身なりを整えますので、応接間にてお待ちください」  ガシャガシャとなにかを引っかき回す音が聞こえた後、カルドンは部屋から出てきてそう頭を下げた。多忙のあまり時間の感覚がなかったらしい屋敷の主は、やや引きつった声でカルドンを呼んだ。 「おいカルドン! まさか、イリスがそこにいるのか?」 「さようでございます、我が主よ。女性をお待たせするなど、栄光あるエングランツ公爵家の当主としていかがなさいます」  姿は見えずとも、その声は十分に元気そうだった。  思わず顔をほころばせたイリスは、やってきた別の使用人に案内されて応接間へと通された。落ち着いた青色の部屋の中は、いつだったか遊びに来た時となんら変わりはない。 「懐かしいわ……まだ先代の公爵様がご存命でいらした際、よくエルキュール様とここで遊んだの。遊んだって言っても、一緒に本を読んだり、駒遊びをするくらいだったけれど――エルキュール様はね、チェスがとてもお上手なのよ」 「お嬢様もチェスをなさるのですか? お屋敷ではあまり見かけませんでしたが……」 「私ね、チェスがすっごく下手なの。駒の動きもあんまり覚えられなくて、エルキュール様が一人でお勉強しているのを見るのが好きだったわ」  とはいっても、イリスがエルキュールのチェスの訓練を見ることができたのは、本当に幼い頃だけだ。イリスが十二歳、エルキュールが二十一歳になると面会も制限されるようになったし、なにより彼自身が公爵家の当主を継いで多忙になった。
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