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触れる体温-3

「カ、カルドン?」  我に返ったイリスがその名前を呼ぶと、彼はエルキュールが屋敷に戻ってきたと教えてくれる。時計を見ればまだ昼過ぎだ。思っていたよりも、彼の帰宅はかなり早かった。 「予定よりも早くお戻りになられましたので、もし旦那様にご用があればと思ったのですが……」 「――ありがとう、カルドン。でも、エルキュール様もお疲れでしょう? お話は夕食の後で構わないわ」  今はどんな顔をしてエルキュールに会えばいいのかもわからなかった。また彼の前でうまく喋ることができなかったり、みっともなく泣き出してしまったらと考えるくらいなら、少し落ち着くまで部屋にいた方がいい。  イリスは扉の外で待つカルドンにそう伝えると、ベルやアナスターシャも一度下がるようにと命じた。ぐるぐると頭の中で色々なことが駆け巡って、一人でないと落ち着かないからだ。 「奥様……その、私のせいで……」 「いいえ、ベルのせいじゃないわ。少し一人でゆっくりしたいって思っただけだから――」  ベルはなにも悪くはない。むしろ、彼女が言ったことは間違ってはいないのだ。  だが間違っていないからこそ、きらきらしい記憶は逆にイリスを苛んでしまう。おとぎ話の王子様のようで、ずっと憧れの存在だったエルキュール。彼の妻として生きていくのだと、イリスはずっとそう信じていた。  そうしてようやく彼の元に嫁いで、そこでようやく思い知ったのだ。 「……エルキュール様は、私のことを妹だと思っていたの?」  十歳近く年が離れていれば、それは仕方のないことなのかもしれない。けれど現実を突きつけられたイリスの胸は、千本の針で刺されたかのようにひどく痛んだ。  ふらふらと寝室のベッドの上まで歩き、柔らかな布地の上に体を投げ出す。はしたないことだと分かっていても、椅子に座っているだけで目眩がしてくるのだ。 「ずっと好きだったのは、私だけなのかな」  ぽつりと零したイリスだったが、不思議と涙は出てこなかった。  彼がこの部屋にやってこないのも当然だ。妹のように思っている人間を抱くことなどできないだろう。公爵邸で触れられた記憶も、夢幻のように遠い。  結局イリスは日が傾き、星が瞬きはじめても部屋を出ることはなかった。ベルが心配して食事を持ってきてくれたが、それも果物に手をつけたきりだ。料理人には申し訳ないが、食事をとる気すらも起きない。  そのまま、ベッドの上でどれだけ過ごしていただろう。夢の淵でまどろんでいたイリスの耳に、低い声が聞こえてきた。 「――イリス?」  聞き慣れた優しい声。父のものでもなく、カルドンのものでもないその声に、思わずイリスは笑みを浮かべた。大好きな人が自分の名前を呼んでくれる、幼い頃の感動が胸をよぎっていく。 「眠っているのか」 「ん……エルキュール、様」  眠ってはいない。そう答えようと思ったが、食事もとらず水も飲んでいなかったイリスの喉は、乾いて張りついてしまっていた。 「けほっ――あ、あの」  重たい瞼を持ち上げれば、部屋の中はすでに暗く、隅の方で燭台の明かりが灯っていた。ぼやけるまなこを何度かこすって体を起こしたイリスは、自分の名を呼んでくれた声の主を探す。 「ぁう、エル――」 「ここだ。水差しを探していた」  掠れた声でエルキュールの名を呼ぼうとしたイリスの前に、水が注がれたグラスが突き出される。ようやく暗がりになれた瞳でその方向を見れば、薄暗闇の中にエルキュールが立っていた。 「まずはこれを飲め。眠っていたから、喉が渇いているんだろう」  存外と優しい声でそう諭され、イリスは黙ってグラスを受け取った。水は室温でぬるくなっていたが、逆に渇いた喉や空腹には過度な刺激にならない。  ようやくグラス一杯の水を飲み干したイリスの手からグラスを取り上げ、エルキュールは新しくそこに水を注いだ。 「あ、あの……エルキュール様、もう大丈夫です……」 「君があまりに美味そうに飲むものだから、俺も喉が渇いたんだ」  そう言って、一息にグラスの中の水を呷る。水を飲み込む時に上下する喉仏を直視できなくて、イリスは思わず目を伏せた。黒髪の下のつややかな肌が、燭台の炎に照らされてゆらめいている。  ――今更、どんな顔をして彼と話せばいいのだろう。  昼間ベルが言っていた言葉が、鉛のようにのしかかってきた。彼の妻にと望んだイリスの行動は、まるっきり空回っていたのだ。エルキュールは彼女を、妹のような存在としか思っていないのに。 「イリス」  落ち着いた声に、イリスの肩が震える。  その様子を見たエルキュールは、来ていたジャケットを脱ぎ、ベッドの淵に座ったままの彼女に目線を合わせるよう、身をかがめた。 「食事はとらなかったのか? 体調が悪いようだとアナスターシャから聞いて、消化に良い物を用意したんだが。果物だけでも食べられるなら、食べた方がいい」  そう言って、再び立ち上がったエルキュールは傍らのテーブルに載せられた果物とナイフを手に取った。そして、赤く熟した林檎に刃を滑らせる。  半分に切られた林檎からは、甘そうな果実の匂いが漂ってきた。 「エ、エルキュール様! そんな、結構です。あなたにそんなことをさせるわけには――」 「別にこれくらいで怪我はしない。うまいものだろう?」  そう言うと、エルキュールはたちまち林檎を六つに切り分けてくれた。 「ほら、口を開けて」  まるで、先日までの彼の様子が嘘のようだ。  イリスの目の前に手を出して林檎を食べさせようとする様子は、二年前の彼に戻ったかのよう。  林檎に罪はないとおとなしく口を開けたイリスに、エルキュールもどこか満足したような表情をしていた。
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