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触れる体温-2

「エルキュール様がお帰りになったことで、国王陛下が王宮の人事刷新を図るというのです。そういった情報はよく売れるとかで、兄の元にも話がたくさん来ているとか」  情報を売る――形のない商品を売るというのはどういう意味だろうか。他の商人のように店を構えたり、家々に出入りしたりするというわけでもなさそうだ。 「お店を出していたりする……わけではないわよね?」 「えぇ。一番上の兄が実家を継いでおりますので、二番目の兄は官吏を本職としています。ですが、時折高貴なお方の命を受けて、そうした情報を取り扱うと……あまり、大きな声では言えないのですが」  まるで、冒険活劇に出てくる隠密や密偵のようだ。  イリスの全く知らない世界の話ではあるが、アナスターシャは真剣そのものといった口調で兄の仕事を語り出した。 「たとえば、イリス様の元に新しい香料が届いたとしましょう。それは東国の、非常に珍しいものだとします」 「え、えぇ……」 「でもその香料は、あまりに珍しいため本物か偽物かの判断がつかないと。そういう場合に、兄の出番なのです。あちこちから話を聞き、その香料の出所を調べ、イリス様の元にその香料の真贋をお話しするという商売なのです」 「……それって、アナスターシャのお兄様が嘘を言っているっていうことはないのかしら?」  真面目なアナスターシャの兄を疑うだなんてことはしたくはないが、情報を売るというのは売る本人の信用が物を言うのではなかろうか。  そう問うと、アナスターシャは深く頷いた。 「その通りです。兄の仕えている方は大層聡明なお方で、そうした情報の流れを見極めるのがとてもお得意なんだとか……兄もなんだかんだと、その方にお仕えするのを楽しみにしていて」  アナスターシャの兄は実家に戻れと何度言われても、頑なにその貴族に仕え続けているらしい。 「ただ、わたくしは兄が心配です。……ここ数年は兄が仕えているお方も、王宮内の政争に巻き込まれないのが精一杯だと――この国のためだとはいえ、わたくしにとって兄は大切な家族なのです」  それもそうだろう。一歩間違えば、貴族や王族の反感を買って処刑されるということもあり得ないことではない。貴族の間を走り回っている彼女の兄は、その危ない綱一本のところに立っているのだ。  少し心配そうな表情をしたアナスターシャを慰めるように、イリスはその手を取った。 「お兄様はたくさんの人のために走り回っているのね」 「イリス様――」  現にイリスは、エルキュール一人にすら信用してもらえていない。彼が王宮でなにをしているのか、なにを考えているのかを、妻であるというのになにひとつ知らないし、教えてももらえないのだ。  そんな自分と比べると、アナスターシャの兄はまるで奇跡でも起こしているようだった。 「……人との関係を築くのに必要なのは、その人と過ごした時間だと、兄はいつも言っていますわ。イリス様とエルキュール様は、二年も離れていらしたんですもの」  二年――やはりその年月が、大きな壁となってイリスの前に立ちはだかる。たった二年と思うか、二年も離れていたと思うのか。それまで互いに婚約者として過ごしてきた時間が、二年であっさりと消えてしまうものなのかを、イリスは先日からずっと考えていた。 「二年前までのエルキュール様は、優しい方だったわ。私の下手な刺繍にも笑わなかったし、風邪を引いて寝込んだ時はお花を贈ってくれたの。それに、屋敷に来て下さった時はいつも一緒に遊んでくれて――」  年の離れた婚約者に対して、エルキュールは誠実だった。まるで家族のようにイリスに接し、一人前の淑女として扱ってくれた。イリスが彼になついていたのは、そういう真摯な面があったからかもしれない。 「お嬢様、それって……あ、ごめんなさい奥様!」  アナスターシャの話にぽかんと口を開けていたベルが、なにかを言おうとして口をつぐんだ。どうしたのかとイリスが問えば、ベルは人好きのする笑顔をわずかに曇らせて頭を掻いた。 「えぇと……こういうことを言うのは、奥様に失礼なのは分かっているんですが……」 「どうしたの、ベル?」 「いえ、その――なんだか、エルキュール様の接し方が……婚約者ではなく、ご自分の妹の面倒を見ているみたいだなって」  気まずげにベルが発したその言葉に、イリスはハッとして目を見開いた。  風邪をひけばお見舞いの花とメッセージを。仕事ばかりの父に退屈していれば、時折やってきて遊んでくれたエルキュールの姿を思い出して、目の前がふらつく。  それは婚約者に対する情愛ではない。ベルが言うように、妹に対する親愛でしかないのだ。 (じゃあ、私はエルキュール様に、婚約者として見られてすらいないってこと?)  背伸びをする子供をあやすように、エルキュールが幼いイリスのわがままに付き合っていただけだとしたら――再会した彼がこの結婚に対して乗り気でなかったのも頷ける。 「あの、イリス様――」 「ばか、ベル! なんてことを言うの……」  アナスターシャがベルを叱りつけるが、イリスはほとんどその声が聞こえていなかった。考えれば考えるほど、子供の頃憧れていたエルキュールの像がボロボロと崩れていく。 「奥様、起きていらっしゃいますか?」  その時、扉の向こうから老執事の声が聞こえてきた。
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