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公爵の帰還-1

「お父様、お母様!」  パードフォード伯爵家の王都邸は、朝から賑やかな声に包まれていた。  伯爵の一人娘であるイリス・パードフォードの誕生日に加えて、今朝は王都全体を賑わすような朗報が飛び込んできたのである。 「エルキュール様が王都にご帰還なさったって、本当ですか!?」 「まあ、イリス……朝だというのに、お父様にご挨拶もないだなんて」 「おお、本当だとも。可愛いイリス」  パードフォード伯爵夫人は呆れたように溜息を吐いたが、娘に甘い伯爵は優しい笑顔を浮かべながら両手を広げた。  十八歳の誕生日を迎えたイリスは、朝方侍女からきいたその知らせを聞いて以来いても立ってもいられなくなったのだ。二年前に王命で僻地に向かっていった彼女の婚約者――エングランツ公エルキュールが王都に凱旋したのだという。 「だってお母様……エルキュール様がお戻りになったって、ベルが言うんだもの」 「エングランツ公爵は明け方に帰還したと聞いたよ。今頃は王宮で国王陛下にご挨拶をしているだろうが――その関係で、私も少々家を空けなければならない」  娘の誕生日、それも成人を迎える十八の誕生日に家を空けることは、子煩悩な伯爵にとってはそれは残念なことであったらしい。  しかしそれはそれ、僻地の内乱を鎮圧するという王命を全うしてきた公爵に挨拶をしておかねばならないというのも、聡明な伯爵はしっかりと分かっていたようだ。 「シュピッツヴェーグ商会で、なにかお前の好きな物を買ってこよう。可愛いイリス、なにか欲しいものはあるかい?」  そんな父の問いに、イリスは首を横に振った。  なによりも待ち焦がれていたのは、大きなぬいぐるみや甘い砂糖菓子ではない。ただ婚約者が無事に帰ってきたという、その事実だけでイリスは十分幸せだった。 「なにもいらないわ、お父様。でももし王宮でエルキュール様に出会ったら、これを渡してほしいの」  それは、少し錆びたような金属製の栞だった。本を読んだり歌を詠うことが好きなイリスのために、エルキュールが送ってくれたものだ。 「これを公爵に? なんだか汚れていないかい?」 「二年前、エルキュール様が私にくれたの。もしかして、自分はもう戻れないかも知れないからって……だからお返しするわ。だって、エルキュール様は戻ってきてくださったんだもの」  恐らくそれは、遺品のつもりで彼が渡してくれたものだったのかもしれない。古ぼけた栞と一緒に贈られた手紙には、自分になにかあったらこの栞を捨てるようにとも書いてあった。 「それと、もしよろしかったら今度……今度、お屋敷にお邪魔してもいいかって、聞いてくれたら……」  二年ぶりに王都に戻ってきたエルキュールは、恐らく多忙を極めるだろう。そんな彼の時間を自分のために分けてもらうのは気が引けたが、イリスも直接エルキュールに挨拶をしたかった。  そんな彼女の気持ちを察してか、両親は顔を見合わせると優しく微笑み、イリスの肩に手を置いてくれる。 「エングランツ公爵とどれだけ話ができるかはわからないが、お前のことはよく伝えておくよ。二年も彼の帰りを待ち続けていたんだ、罰は当たらないだろう」 「あ、ありがとうございます、お父様……!」  やっとエルキュールに会うことができる。そう思うだけで、イリスの心は喜びに沸き立った。  二年前よりも自分は大人になったはずだ。苦手だった裁縫も母について一生懸命練習したし、彼が褒めてくれた歌は昔よりもずっとうまく歌えるようになっているはずだ。 「もうすぐ王宮に向かうことになっている。イリス、帰ってきたらお前の誕生パーティーだ」  豊かな髭を蓄えた伯爵は、そう言って出掛ける準備をしに部屋へと戻っていった。 「本当に、帰ってきてくださったのね――エルキュール様」  喜びの声を隠すことなく、イリスは婚約者の名を呼んだ。  公爵家にも連なるパードフォード伯爵家は、このヴィテンブリト王国でも名のある貴族であった。歴史は古く、その家系からは国王妃も輩出している。  そんな伯爵家の一人娘と、現国王の従兄にあたるエングランツ公爵の婚約は、典型的な政略結婚であった。だが、イリスはそれに異を唱えたことはない。貴族として婚姻の重大さは分かっているし、純粋にエルキュールが好きだったからというのもある。 「二年前はろくにお別れも言えなかったものね。どうしてもエルキュール様に行ってほしくないって、前の日は夜遅くまで泣きじゃくっていたもの」 「お、覚えてたの、お母様……」 「忘れるものですか」  イリスとしては早く忘れてもらいたい記憶なのだが、母はクスクスと笑うと彼女の柔らかい金髪に触れた。 「二年という年月は、決して短いものではないわ。その間、よく頑張りましたね。イリス」  母の言葉に、思わず胸が熱くなってしまう。  軍人であるエルキュールは、国王の命令を受けて内乱の最前線へと向かったのだ。混乱が激しく、もしかすると戻れないかもしれないとまで言われた大きな戦いを治め、彼は再びこの王都に――イリスの元に帰ってきてくれた。  あまり口数が多くはないが、その分優しかった婚約者のまなざしを思い出すだけで、イリスは今すぐにでも涙を流してしまいそうだった。 「エルキュール様に会ったら、この二年のお話をするわ。その為にずっと日記を書き続けてきたし、ずっと……お話ししたいことがたくさんあるんだもの」  出立の前日、もしかすると自分は戻ることができないだろうと告げたエルキュールに、十 六歳だったイリスは人目もはばからず泣きついたものだった。国王命令を退けることはできないと分かっていながら、それでも恋心を抱いていた彼が遠くに行ってしまうのが、どうしても耐えられなかったのだ。 「あなたの努力は、きっとエングランツ公爵閣下もわかってくださるはずよ。……さあ、まずは部屋に戻って身だしなみを整えていらっしゃい。お父様がいらっしゃらなくても、今日はお客様がたくさん来るのよ?」  贔屓にしている商人や、仲の良い貴族令嬢――彼らを呼び行う誕生パーティーにイリスは主役として出席しなければならない。  父が戻るまでにちゃんとするようにとの母の命を受けて、イリスは侍女のベルと共に部屋に戻った。
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