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触れる体温-1

 考えていたよりも、思ったようにはいかないものだ。  明くる日も、そのまた明くる日も、エルキュールは屋敷を留守にした。イリスが歌を歌いながら眠ってしまったその夜のうちに、どうやらエルキュールは王宮へと出掛けていったらしい。  私室にやってきたカルドンへ、イリスは一度尋ねてみることにした。 「エルキュール様は、無断の外出を禁じられているのではなかったの?」 「それが、国王陛下から至急のお呼び出しがございまして……今日の夕方には戻られるご予定とのことですが、それもまだはっきりとは」  困ったように首を傾げるカルドンに、イリスは殴られたように目の前がくらくらした。  国王からの呼び出しであれば無論エルキュールとてそれに従わなければならない。未だに国王と彼の関係性が読めないイリスではあったが、夫の従弟であるヴィテンブリト王国の若き王は、なにかにつけてエルキュールを呼び出すことが多いのだという。 「マルクス国王陛下は、旦那様を実の兄のように慕っておられます。一昨年の先王陛下崩御の際も、憔悴しきったマルクス陛下のおそばに旦那様がつきっきりでおられたのですよ」 「でも、陛下はエルキュール様を……」  年若い国王は、エルキュールに理由をつけてこの屋敷に幽閉した。それを簡単に自分の元まで呼び出すというのは、いくらイリスでも少しおかしいのではないかと考えてしまう。  自室の椅子の上で眉を寄せる女主人に、カルドンはゆっくりと首を横に振った。 「陛下のお考えは、誰にも理解されるものではございません。ですがあの方が旦那様を疎むとは、どうしても考えられないのです」  結局エルキュールは、カルドンにも僻地での出来事を多く語らないという。だが彼は、明らかに二年の遠征で変わってしまったらしい。  イリスはぼんやりと窓の外を眺めながら、なにが彼をそこまで変えてしまったのかと考えはじめた。 「もし、今日の夕方にエルキュール様が戻ってきたら、また一緒にお食事をしたいわ。来客の予定はあったかしら?」  側に控えている老執事に尋ねるが、この屋敷に来客があったことは今まで一度もなかった。商人たちが出入りするような様子もないが、それは決まった日に決まった人数だけが屋敷に来ることを許されているらしい。 「いいえ、奥様。本日も来客の予定がございません。旦那様が戻り次第、お二人で夕食をおとりください」 「そうね……そうするわ。ありがとうカルドン」  イリスが笑いかければ、カルドンは屋敷の他の仕事を行うために部屋を出ていってしまう。部屋に残ったイリスと侍女二人は、顔をつきあわせるようにしてエルキュールの話をしだした。 「それにしても、二日も帰られていないだなんて……お体は大丈夫なのかしら」 「エルキュール様は屈強な王国軍人ですわ。きっと奥様が心配なさるようなことはないと思いますが――それにしても、急なご出立だったので誰も挨拶すらできていないだなんて」  そう、エルキュールは夜半、たった一人で屋敷を出たのだ。  一頭の馬と刀剣、身分証など簡単な荷物だけを持って、一人で王宮に向かってしまった。これが一般的な王宮への出仕であったら、公爵という彼の立場上仕事の補佐官や従者を伴っていくことが多いはずだ。 「でもそれって、屋敷の人間にも知られたくないってことですよね? 普通だったら、そんな遅くにお仕事に行ったりなんてしませんもの!」  ベルがしかめっ面をして考え込むようなそぶりを見せたが、夜遅くに彼が屋敷を出た理由はエルキュール本人にしかわからないだろう。もしかして本当に、国王から火急の呼び出しがあったのかもしれない。 「……どちらにせよ、エルキュール様にお聞きしないことにはなにもわからないわね。そうだ、ベル? まだ香料は届いていないのかしら」  夕方になれば彼は帰ってくる。  自分にそう言い聞かせて、イリスはまだうんうんと唸っているベルに声をかけた。香料を取り寄せてもらって三日ほどだが、揃えるのが難しい香料以外はそろそろ手元に届けられるのではないだろうか。 「は、はいっ! 執事様にお伺いしてみたんですが……取り寄せている途中の関所で、少しいざこざがあったようなんです。到着が二日ほど遅れてしまうみたいなんです……」 「あら、そうだったの? それなら仕方がないわね……」  エルキュールが内乱を鎮めてきたとはいえ、この国はまだ小さな争いの火種が完全に消えたわけではない。若い国王が即位し、先王の時代から少しずつ変革を行っていることに不満を述べる地方貴族が存在しているのだ。  鎮圧に二年を掛けた、僻地への遠征もそうだった。地方で力を持った貴族が国王への反乱を起こしたのだが、それが種火となって広い地方にまで内乱の炎が広がったのだ。  時間と金、たくさんの人の命をかけて無事に鎮圧されたとはいえ、この国はまだ完全に平和になったわけではない。 「王宮でも、内務に携わる人事異動が大規模に行われるとの噂ですわ。今まで重要な立場にあった貴族であっても、目立った功績がなかったり、後ろ暗いことをしている人間は地位にかかわらず罷免されるそうです」 「アナったら、そういう話どこで聞いてくるの? 執事様に聞いても、そんなこと教えてくださらないのに!」  冷静に王宮の内部事情を語り出したアナスターシャに、ベルが驚きの声を上げた。  確かに王宮の人事異動のことなど、ただの侍女には知り得ない話だ。イリスも王宮のことはよく知らないし、彼女の父である伯爵も詳しくは教えてくれなかった。 「わたくしの兄が、王宮でさるお方に仕官しているというのですが」 「アナスターシャのお兄様って、官吏だったの?」 「えぇ。我が家は代々商人の家系ですが、二番目の兄は学問に秀で、今では王宮の執務補佐官の職に就いています。その中で、そういう話を聞いてくることが多いのです」  ちらりと入り口の方を見たアナスターシャが、イリスとベルに顔を近づけて、声を潜めた。そのただならぬ様子に二人もごくりと唾を飲み込み、彼女の言葉を待つ。
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