21 / 28

すれ違う二人-9

「奥様、奥様!」 「……ベル」 「顔色が……その、お部屋に戻りましょう。よろしいですか、旦那様」  まるでイリスを庇うように、ベルは彼女の前に立ってエルキュールに願い出た。彼は僅かに目を見開いたが、自分の分の皿が空いたのを見ると簡単に頷く。 「構わない。やはり、今日は疲れたんだろう。そこの……アナスターシャと言ったか。君、イリスに蜂蜜酒を」 「は、はい。あの、旦那様。ご寝室は……」 「俺はまだ仕事がある。今日はイリスを休ませてやってくれ」  エルキュールはイリスを叱責することも、呆れることもなかった。それどころかカノジョが落ち着くようにと、蜂蜜酒や部屋の用意までを侍女に命じてくれる。  けれどイリスは、呆然としたまま指一本も動かせなかった。彼に礼を言うこともできなければ、心配してくれるベルたちに笑いかけることもできない。  糸が切れた人形のようになりながら、彼女は食事を終えたエルキュールが席を立つのを黙ってみているしかできなかった。 「奥様……申し訳ございません。以前はあのようなことを言う方ではなかったのですが……」  カルドンが痛ましそうな表情でイリスに謝罪してきた。けれどイリスは、それ以前にどうして自分がこんなにも胸を痛めているのかが理解できなかった。  エルキュールが言っていたことは、すべて正論なのだ。間違ったことを言っているわけではないのに、どうして自分がこんなに傷ついているのか――訳も分からないまま座り込んで言葉も出なくなった自分にも、驚きを隠せないでいる。 「奥様、どうぞ手を。お部屋に戻りましょう? アナが蜂蜜酒を用意してくれますから……」 「え、えぇ……大丈夫よ、ベル。カルドンも、ごめんなさい。少し驚いてしまって」  イリスが知っているエルキュールは、無駄口を叩くような人間ではなかったが、あそこまでつっけんどんな人間でもなかった。あんな言葉を発する彼を見るのは、イリスも初めてだ。  ベルに付き添われて部屋に戻りながら、イリスは再会してからのエルキュールの言動をもう一度振り返ってみた。子供の頃のように気に掛けてくれるわけでも、直接優しい言葉を書けてくれるわけでもない。それでも、イリスは彼が冷たい人間だとは思えないのだ。  だからこそ、先ほどの彼の言動に驚いてしまった。 「イリス様、気分はいかがですか……? その、旦那様もあんな風に言わなくたって……イリス様は旦那様を心配して中庭に誘ったのに……」  ベルが心配そうにイリスの顔を覗きこんでくるが、うまい返答ができない。曖昧に笑みを浮かべたイリスは「そうね」とだけ返して、また薄暗い廊下を歩いた。  ――この屋敷は広い。伯爵家よりもずっと広いのに、配置されている人員は必要最低限だ。家のことを取り仕切るカルドンと、イリスの侍女二人と、それから雑務を行う使用人が数人だけ。どこかがらんとして、寂しげな空間が広がっているのはそのせいだろう。 「伯爵邸とは、なにもかも違うのね」 「え?」 「お父様がいて、お母様がいて、家の中はとっても賑やかで――でもこのお屋敷は、とっても静かだわ」  王都にある公爵家の本邸にも人員を割いているのだろう。あるいは、多くの使用人を抱えることを国王が許してくれなかった可能性もある。  エルキュールのなにが国王の不興を買ったのかはイリスにはわからない。それに対しても、エルキュールは大切なことをなにも教えてくれないのだ。 「……今夜は、エルキュール様は部屋に来ないのね」 「そう、ですね。今晩はよく奥様をお休みさせるようにと言いつかっておりますし、その……」  言いよどむベルはどこまでも正直だ。だからこそイリスも彼女を信頼しているし、それが彼女の美点だと思っている。  確かにエルキュールは、イリスの体を心配してくれた。けれど今日は、彼女がエルキュールの妻として公爵家に越してきた最初の夜なのだ。  家庭教師から伝え聞いた初夜の儀は結局行われることはない。あれは、盛大な結婚式の後に行うものとも聞いていたが――どちらにせよ、エルキュールが今夜新妻の褥に訪れることはないのだ。 「イリス様、こちらをお飲みください。温めてありますので、よく眠れると思います」  一人ぼっちの部屋に腰を落ち着けてしばらくすると、アナスターシャが蜂蜜酒を持ってやってきてくれた。 「ありがとう、ベル、アナスターシャ……今日はもう休んで。色々あって疲れたでしょう」  さらにアナスターシャは、心地よい夜の風を浴びることができるようにと、大きな窓を少しだけ開けてくれる。イリスが実家で作っていた香を焚いてくれたベルにも感謝を述べて、イリスは二人を休ませてやることにした。  ベルは最後まで彼女を気にかけてくれたが、アナスターシャに引っ張られて部屋を出ていってしまった。一人になりたいという主の気持ちを、アナスターシャが汲んでくれたのだ。 (ベルにもアナスターシャにも、心配をかけてしまったわ)  心優しい二人のことだから、きっと今でもイリスのことを心配しているだろう。  窓から抜ける清浄な夜の風を吸い込みながら、イリスは窓の外を眺めた。王都の真ん中よりもずっと空が澄んでいて、星がよく見える。 「エルキュール様……」  蜂蜜酒はほのかに甘く、イリスの体を温めてくれる。窓を開けているとはいえ風も冷たくはないので、次第に彼女もふわふわとした夢心地を覚えていった。 「――ラ、ラ」  ふと口をついて出たのは、幼い頃から母に聞かせてもらっていた歌だ。  歌うことは昔から大好きだった。元々声楽を習っていた母について、イリス自身も歌が大好きな人間に育ったのだ、  かすかな酩酊感に乗ってなじみのある調べを繰り返すと、少しだけ心が落ち着いたようにも思える。 (明日は、エルキュール様とちゃんとお話しできるかしら)  歌の合間にグラスに残った蜂蜜酒をもう一口飲むと、疲れていたのかそのままイリスの意識はゆっくりと沈んでいった。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!