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第29話

 エレベーターの隅にいる私のすぐ隣に、周くんが立っている。  周くんは女子社員に階数ボタンを押させてよしとするタイプの男の子じゃない。だからスッと先にボタンの前に立つことが多い。そういう所が女子社員からの評判がいい理由のひとつだ。  ……でも今は、私の隣に立っている。長い腕だけ伸ばして社長室のある階を押したあと、すぐに戻ってきたから。 「ねえ。酔わないんですか?」  背中に汗が伝った。  聞いたことがなかった。こんな声。 (……怒って、る……?) 「さっきも言いましたけど。あれは気分の悪くなった顔ではありませんでしたよ」 「……っ」  また言った。やっぱり言ってた。  静かな圧がこわくて顔をあげられない私を無視したまま、周くんは淡々と続ける。 「頬が少し赤くなっていて、目はちょっとですが潤んでいました。……他の社員からしたら、確かに気分が悪いようにも見えなくもなかったでしょうね。そもそも大朏さんはあまり顔を上げていないようでしたから」  ――ポーン。  エレベーターが開き、周くんが出ていく。  私も続かなくちゃいけない。だって今は仕事中で、大事な報告と書類を渡しに行くという理由があるから、周くんのあとをついて行かなくちゃいけない。  顔を上げて、エレベーターを降りた。ちらりと周くんが私を見遣る。目が合ったように思ったけど、すぐに前を向いちゃったからもうわからない。 (どうしよう) (素直に言うべき?)  社長室の前に辿りつくと、周くんはカードキーと指紋認証のロックを解いた。  前呼ばれた時はそんなのなかったのに。 「ああ、気付きました?先日取り付けたんです。何もかも旧いでしょう、ここの会社は」  ジー、と機械音がして扉が開錠されたのがわかった。  周くんは気取らずに扉に手を掛け、私を見る。 「どうぞ」  それだけ言って、またスイと音のしないラグを歩き奥へと行ってしまった。 (どうしよう) (謝れば、いいの?でも) 「大朏さん」  立ち尽くしている私に、まるで水でも打ちかけるような冷たくて強い声が浴びせられる。  ハッとして我に返ると、奥に周くんがきちんと姿勢を正して私を見ていた。 「早く報告を。そのために来たんでしょう」 「はっ……はい!」 (そうだよ、今は仕事中) (公私をわけるっていう入社以来守ってきたスタンスはどこいっちゃったの!)  1度部屋に背を向けて両頬を打つと、回れ右をして社長室に入る。  奥の立派な椅子に腰を下ろしたばかりの周くんは、机上で両手の指を絡ませながら私を見上げた。 「高田印刷の件。まとまりましたか」 「ええ。……この通り、きちんと印も押していただきました」 「確認します。……問題ありませんね。先方は佐野さんをいたく気に入っていたようでしたが、引継ぎの際何かごたついたりは?」 「いいえ、特に。たしかに佐野の事を気にしてはいましたが、私についてもその……引継ぎ前に佐野からそれとなく話していたようで」 「……というと?」  周くんは穏やかな表情を保ってる。  だから、ちょっと右の眉毛が歪んだように見えたのはきっと私の気のせいだ。 「佐野は自分が先方に気に入られている自覚があったようで、引継ぎ時に必要以上ごねられないようそれとなく私の話をしていたようです」 「……なるほどね。さすが佐野さんだ」 「そう……ですね」 「それで」  古びた椅子がギィ、と鳴きながら、周くんは立ち上がる。  ゆっくりと机の前まで歩いてくると私を見下ろして――ふっと笑った。 「それで――その佐野さんに、エレベーターでキスをされたと」 「……なんでっ……」 (あ!)  ――失敗した。  完全に、いまのはカマをかけられたんだ。  だってその証拠に、周くんが……怖いくらい綺麗に微笑んだ。
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