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第28話

「四ノ宮」  何ら気にしないように佐野が口にしたその名前を、私は声に出来なかった。  うしろから周くんが近付いてくる。足音が、こわい。うしろを振り向けなくて、佐野の肩を見つめ続けている。 「大朏さん……どうしたんです?」 「エレベーターで一緒になったんだが」 「エレベーターで?」 「ああ。酔ったらしい」 「……そうだったんですか。大丈夫ですか?大朏さん」  社内での周くんは声にいつも一定の温度を保って話すから、顔を見ないとわからない。わからないけど、いつもより低く感じてしまうのは佐野とのキスの件があるからだってのは、自覚していた。  そして呼びかけられているにも関わらず、無視をするのは恋人としてではなく社会人としてもおかしい。 「……佐野、おろして」 「まだ無理だろう」 「いいから。大丈夫だから」 「……」  佐野は黙って私を下ろす。  ちょっとふらついたけど、大丈夫だ。自分で立てる。いつの間に持ってくれていたのだろう、佐野は私のカバンを手渡してくれた。……隙がなくて、ほんといやだ。 「ありがとう四ノ宮くん。もう大丈」  ―――夫、と言いかけて周くんと目が合う。  ちゃんと顔を見て会話をするのは10日ぶりで、ほんとはこんな、後ろめたい気持ちでじゃなくてふたりきりになった時に――― (……あ、なんか、だめかも) (…………泣きそう) 「大朏さん?」 「だ、大丈夫。ごめんカッコ悪いとこ見せたね。研修早く終わった?」 「ええ。おかげさまで」 「佐野班の話は佐野に聞いて。私は報告あげてくるから」 「高田印刷ですか」 「まぁね」 「それなら直接社長へとお達しが出てましたよ」 「は?」 「おい四ノ宮」  私と佐野の声がかぶった。  当然だ。高田印刷の件はまず課長、それから部長に上がっていくことになっていたはずだから。少なくとも、佐野班が持っていた時はそうだった。周くんは感情の読めない顔をしたまま続ける。 「部長にも伝わっているはずですよ」 「……本当に?」 「ええ。僕も社長室に用があるので、行きますか」  返事も聞かずに私に背を向けた周くんは、もう1度横目で見遣ってから「行きましょう」とくり返した。当然ながら手なんて伸ばしてこない。でも、視線だけで捕らわれている。 「おい、四ノ宮。お前」 「佐野さんへの報告書はまとめて鷹山さんに提出しました。ご確認お願い致します」  そして嫌味なくらい丁寧に佐野へとお辞儀をすると、今度こそ私の手首を掴んで歩き出した。まだ足元がおぼつかなくてひっぱられるようにしながら後に続く。  佐野を見ると、眉間に皺を寄せて口を開けていた。驚きと呆れと怒りと、いろんな感情が混ざってる佐野のあんな顔、大学時代にだって数回しか見たことがない。 「ちょ、ちょっと……手首、つかんでる」 「大朏さんまだ足元が危ないじゃないですか。支えてるだけですから」 「そうだけど」 「あまり騒ぐとよけいに怪しいですよ。……報告しに行くんでしょう。僕も研修あがりの挨拶をしに行くんですから」 「そ……うだけど」  エレベーターのボタンを押すと、ようやく手を離してくれた。 「……本当にエレベーターで酔ったんですか?」 「え?あ、……うん」 「そんな顔してませんでしたよ」 「え……」  ―――ポーン。  エレベーターが到着し、中から降りてくる社員を見送る。周くんの視線をジリジリと感じながら心を持ち直してエレベーターに乗った。うしろから周くんが乗り、ふたりきりになる。 (……やだな)  このエレベーターはさっき佐野と一緒にいたものだ。思い出したくもないのに、ついさっきのことだから否が応でも思い出す。しかも、エレベーターに乗る前の周くんの言葉。 (そんな顔してなかった、って言ってた) (まさかとは思いたいけど) 「……今は、酔わないんですか?」  ひやりとした声がした。すぐ隣から。これは、意識的に出された冷たさだ。
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