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〈第一章・13〉
「綺麗なグラスです」
「これはグラスではなく、片口ですよ」
「かたくち……?」
「そう。江戸切子 。ふふふ、千秋さんはお酒は、あまり?」
「飲めないんです。下戸なんで」
姫桜は「でしょうねぇ」と笑った。
「人生の楽しみを幾分か無くしてよ?」
「よく言われます。あ、お酒でしたっけ? 飲むんですか? 持って来ますけど」
「あなたが飲まないならお茶でもいいわ。ああ、私ときたらとんだ失敗をしてしまいました。お酒のつまみに身の上話でも聞き出して楽しもうかと企んでいたのに」
「身の上話? そんなの別に、お酒を飲まなくたっていいじゃないですか。はい、お茶どうぞ」
茶を差し出すと、むくれた口調で横を向く。
「酔わせて話させるのが一番面白いのです」
「……姫桜さまって、お上品に見えるけど実は腹黒でしょう」
「ふう」
姫桜は、僕の差し出した湯飲みを受け取ってひとくち飲み、蝶をかたどった変わったライターを点す。
紙巻に火を点け、深く吸い込んだ。
ふわりと控えめな香りが漂う。
――桜、か。
「そんな、語るほどの身の上なんて、ないですよ」
僕は姫桜に向かって、ぽつりぽつりと語って聞かせた。
僕にとっての〈日常〉を。
姫桜は、そんな僕の〈日常〉を愉快そうに聞いている。
ここに迷い込み、細雪に殺されそうになったくだりまでたどり着くと、ころころと声を立てて笑い転げた。
先刻までの、丁寧ながらちょっと気取った顔からは思わぬギャップに、思わず頬が綻んでしまう。
「で、えっと……」
もっと、姫桜を笑わせてみたい。
いつしか僕は、ドジな友人の失恋話なんかを大げささに脚色して喋りまくっていた。
「友達とは得がたいものです。何物にも代えられぬ財産ですね」
寂しげな呟きが耳を打つ。
(まずった。彼女は自分と同じくここに幽閉されていて、友人など望めないのに)
急いで話題を切り替えることにした。
「姫桜さまは、どうしてここに? 僕と同じで、迷って囚われているんですか?」
「私は……」
すう、と姫桜は桜の煙を吹き、蕾のような唇を開く。
「望んでここへ参りました」
「望んで?」
一度きりでは、語れない。
長い話になる……と言って。
姫桜は、ずっと閉じていた目を開いて、僕の左手の小指を握りしめた。
見えない眼 は傷ひとつない、琥珀色をしていた。
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