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〈第一章・4〉

 ただな。    花姫(はなひめ)――。  俺はそう呼んでいる。  ああ、そうだ胡蝶もな。  花姫の蜜を啜って、せいぜい生き延びな――。 「詳しいことは、胡蝶に聞けや……か」  僕は、長い廊下を歩き、自分に与えられた、飾りも色もない、狭い部屋の扉を開けた。  *   「千秋」 「胡蝶蘭さま?」  何もない部屋に、主人――青い髪、青い瞳の娘がいた。  ただ立っているだけなのに、殺風景な部屋がそれだけで煌びやかな空間に変わっている。 「安い花のにおいがする」    胡蝶蘭は黒衣を荒っぽく掴むとすぐに放し、薔薇の香りがする紙巻に火を点けた。 「くく。牡丹と共にいたのだな」 「はい」  彼女は初めて会った時と同じ、底意地の悪そうな笑みを浮かべた。 「はどうだった」  自分の耳が赤くなるのを感じながら、青い瞳から目をそらした。 「牡丹さまの望みは、その……。でも、僕は彼女には何も――」  僕がうつむくのを見て、胡蝶蘭は、くつくつと喉の奥で嗤う。 「お前に拒否権はない。花姫たちへの奉仕に手を抜くな」 (ああ、灰皿がない)  落ちそうな灰を見て慌てて部屋を見回し、誰かが使ったままほったらかしになっていたコップを差し出した。  礼の言葉などはもちろん存在せず、彼女はコップに躊躇(ためら)いもなしに灰を落とした。  こちらへ向き直り、わずかに首を傾げる。 「ここの暮らしには慣れたか」 「は?」   思わず深いため息をついた。 「そんなわけ、ないだろ……」 「慣れずとも、ここから出て行くことが適わぬなら、慣れていくしかない。それはお前も身をもって知ったろう? 館から逃げ出したとてどこへも行けぬ。何十年に一度、外界とこちらの空間とやらに〈ひずみ〉が生じて、迷い人が訪れることがあるのさ」  薔薇の香りを纏い、胡蝶蘭は歌うように言葉を紡ぐ。 「迷い人」 「たいがいは処分されてしまうがな」  胡蝶蘭は、恐ろしい言葉をさらりと口にして、コップに吸殻を押しつぶした。  そんな悠長な態度に、どうにも神経がささくれ立つ。  壁を強く叩いた。 「だったらどうして助けた。あんな場所で、何も分かんないまま死なずに済んだのは、あんたのおかげだ。けどな! 戻れないなんてあんまりだ!」
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